第77回:東日本大震災から 11 年伝えたい!ふくしまの今
●日時:2022年3月1日(火)16時00分~17時00分
●場所:WEB 会議(Zoom)
●参加団体:26 団体(運営 10 団体含む)
●参加人数:32 名(運営スタッフ 15 名含む)
1.情報提供
〇浜田氏(RSY):先週、栗田からも案内したが、「愛知県災害支援のためのボランティア等情報共有会議」が今度の 3 月 16 日(水)に開催される。まさに災害が起きた時に情報共有会議をするということ と、災害が起こる前の平常時から、顔の見える関係を構築していきたいということで、愛知県からアナ ウンスが流れている。皆様も是非、参加いただきたいので、おたがいさま会議にご参加の皆様の登録を お願いする。登録は 11 日まで。
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/bosai/johokyoyukaigi2021.html
2.話題提供
■テーマ
『東日本大震災から 11 年伝えたい!ふくしまの今』
(北村育美氏:東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)福島担当)
〇自己紹介
・福島は、どんどん町が新しくなっていて、風景やインフラがどんどん変わっている。今日は「ふくしま」の今について、写真を中心にお話を進めていきたいと思っている。まず今、福島はどのように伝えられ ているかというと、震災から今年で 11 年だが、やはり報道の数がとても少ないと思っている。福島の ことはそんなに伝わってないのではないかと感じており、今日は皆さんに「ふくしま」の今を伝えてい けたらと思っている。
・簡単に自己紹介をさせてもらうと、私は今、福島に住んでいるが、元々福島出身ではなくて、東日本大 震災がきっかけで移住をしている。2004 年に新潟県中越地震があり、そこで自宅が被災をし、そのこ とがきっかけでボランティアを始めた。2007 年に新潟県中越沖地震が発生して、中越復興市民会議と いうところで活動をしていて、刈羽村の避難所支援を行っていた。その経験が 2011 年に東日本大震災 で福島に移住するきっかけになった。現在は、震災がつなぐ全国ネットワークの個人会員としても活動している。
・移住のきっかけは、福島県の郡山市にある「ビッグパレットふくしま」という本当に大きな避難所に支 援に入ったことである。ここでは約 2,500 人の方々が避難生活をしていた。原発事故で被害を受けた 富岡町・川内村の人たちが中心で、着のみ着のまま避難して来られていた。ここでは約 5 ヶ月間避難生 活が続いたが、「こんな避難所見たことがない」というくらい厳しい環境であった。食事を受け取るの に長い行列ができ、食事を取りに行くだけでも 1 時間かかってしまう。その並んでいる人たちの隣に は避難している人たちの生活スペースがあり、環境的にも相当厳しいものがあった。今はコロナウイル ス対策が重要だが、ここでは当時、ノロウイルスが発生したこともあって、非常に大変な避難所であっ た。ここに中越から応援に入り、カフェを設置したり足湯を行なったりしていた。
・このビッグパレットふくしまで富岡町の桜の写真が飾ってあった。ここの写真の前で涙を流している人がいた。故郷を思い出す桜を見て、戻ることができるのかどうか、先の見えない不安だとか、色々な 思いが詰まった涙だった。まだまだ見通しが立たない中で、この避難所で出会った人たちが故郷に帰れ るまで見守っていきたいと考えて、翌年 2012 年に福島県に移住した。
〇「ふくしま」の現状について
・福島第一原子力発電所は双葉町と大熊町の境の海沿いにある。双葉町はまだ誰も住んでいない。大熊町はほぼ帰還困難区域だが一部分だけ避難指示が解除されている。浪江町も面積にすると半分ぐらいが 帰還困難区域だが、多くの人が住んでいた東部については避難指示が解除されている。富岡町も一部は 今も帰還困難区域だが、大部分が解除されている。あとは 20 キロ圏内だと楢葉町も全面解除されてい るし、川内村、田村市の都路も避難指示が解除されている。葛尾村、飯舘村の一部は帰還困難区域とな っている。各地に特定復興再生拠点内の解除区域があるが、双葉町はまだ誰も住むことはできない中、 復興再生拠点と呼ばれる部分を重点的に除染して、まずそこに人を戻そうということになっている。
・私の感覚的なことも含まれているが、震災直後から現在までをまとめてみる。まず震災直後は家族を守 るということ。まずは遠くへ逃げるということで、故郷を離れて避難をする。ビッグパレットふくしま のような避難所では「みんな頑張っていこう!」という感じだったが、避難所を出て、仮設住宅やみな し仮設など、それぞれの個別の生活に移って行くと、故郷を離れて県外に行くのか、あるいは県内のど こに避難するのか、さまざまな選択に迫られる。そうした選択をする中で、故郷との繋がり、人と人と のつながりをさまざま喪失していく。そのような選択が今も続いているところもある。
・今は生活再建という段階に入ってきてはいるが、これまでの選択・判断が正しかったのか、揺れ動く気 持ちは誰もが抱えている。避難者であることを隠して生活する方が楽だと話す人も相当数いる。避難し てきたと言うと、いろいろと気を使われたり、賠償でお金をたくさん貰っているのでは、などと言われ るのが嫌だからというのがその理由。また、賠償の状況による分断があることも事実である。
・原発事故というのは、避難形態がさまざまであるというのが特徴である。県内での避難の場合、避難所 生活が終わると、応急仮設住宅もしくはいわゆるみなみし仮設と言われる民間の借り上げ住宅を借り ることになる。その期限が終わると、住宅再建で家を建てるか災害公営住宅に入るかの選択になるが、 いずれも故郷から離れた場所での住宅再建になる。一方、県外に避難するという形態もあるが、借り上 げ住宅、みなし仮設、それが終わると住宅再建というのは同様で、県外で家を建てている方も多くいる。 そしてもう一つのケースが自主避難である。避難指示の区域からではない方々の住宅は、無償提供が打 ち切られている。原発事故はそれぞれの段階で選択・判断を迫られるという大変さがある。
・まとめると、避難者の生活再建は、経済面や家族の事情で非常に個別化していき、選択の連続である。 もう帰れないというところから、帰還することができることになると、帰還する・しないの選択肢が増 える。さまざまな課題が、より個別化・複雑化しているという印象である。
・今、どれぐらいの人が以前住んでいた地域に戻っているかというと、1 年前のデータになるが、避難指 示が早い時期に解除された自治体で居住率が高くなっている。新しいデータがちょうど数日前 NHK か ら出ていたが、平均して 34.1%の方が以前住んでいた地域に戻っている。全域が帰還困難区域である双 葉町は 0%。浪江町はかなり復興してきているな、賑わっているなというふうに感じているが、それで も 11.4%となっている。やはり 10 年経過すると、避難先で生活が安定し、そこで基盤を築くので、戻 るとなると、家を建てるとか元々住んでいた家を修繕するというのが難しいところがある。
・ここからそれぞれの町を紹介したい。浪江町は道の駅ができて、ここを拠点にかなりにぎわいを取り戻しつつあると思っている。浪江町には桜がきれいな津島地区、ここは DASH 村があった場所だが、帰還 困難区域のため人は住んでおらず、道の駅のにぎやかさと比べると「取り残された」という印象である。 津島地区はこれから復興交流拠点を中心に除染が進んでいく予定である。
・続いて双葉町。双葉町には中間貯蔵施設があり、フレコンパック(土のう袋)が積まれているのが見え る。福島県内の各自治体からどんどん除染した土が運び込まれている。中間貯蔵なので、ここが最終処 分場ではない。最終処分場は県外と国は言っているが、実際のところ、ここが最終なのではとも思って いる。双葉町には誰も住むことができなくなっており、国が借り上げてこのような中間貯蔵施設がかな りの面積で双葉町や大熊町に設置されている。
・双葉町は誰も住んでいない中できれいな建物がどんどん建っていて、東日本大震災・原子力災害伝承施 設なども造られている。周りに何もないところに新しい建物があるというのも、すごく違和感がある。 電車はいち早く通り、双葉駅は昔の駅舎の隣に新しく駅舎が建てられた。人は誰も住んでいないので、 電車が止まっても降りてくる人はほとんどいない。
・このように新しい建物が立ち、駅が再開しているが、一方で双葉厚生病院という病院が 10 年前のその ままの形で残っている。ここは、住民が避難したのに全然助けが来なくて、外でずっと待っていた時に 被曝してしまったと言われている場所である。病院は建物もそのまま解体されずに残っている。
・福島を南北に通っている 6 号線という本当に大きな基幹道路があるが、6 号線沿いの家は未だに誰も住 むことができないので、バリケードが設置されている。帰還困難区域なので、自分の家に入るのにも申 請して鍵をもらって、バリケードを開けて入ることになる。自分の家なのに許可をもらって入らなけれ ばいけないのが、すごく違和感があると帰還困難区域の方が言っていた。今もそういう状態が続いてい る。6 号線は先立って除染されて道路は開通しているが、今後ここが復興拠点になるということで、周 辺の家の解体が進んでいる。そのため、少しの間にどんどん風景が変わっていく。町が新しくなってい くというのは、人の営みや生活が始まっているということだが、一方で県外や県内の他地域へ避難した 人の中には、この「町が変わっていく」というギャップに、気持ちがついていかない人もいる。
・大熊町は大部分が帰還困難区域だが、一部解除された場所には一旦会津若松に移転していた役場が新 しく建設されている。役場の周辺が復興再生拠点なので、公営住宅も建てられている。公営住宅には移 住してきた人も住むことができるので、たくさんの入居が決まっていると聞いている。ただ大熊町はス ーパーが無く、町を巡るバスが隣の富岡町のスーパーに寄るルートになっている。このように、新しい 町がどんどん造られていく一方で、大熊町の大野駅では、電車は通っているものの駅を降りると家の周 辺にはバリケードがあり入れないようになっているため、草が生い茂ってしまっている状態である。
・富岡町は町の一部分を残して、全て解除されているので、大熊町から入ると全然風景が違うと感じる。 スーパーもあるし、子どもの遊び場があったりして、利用している人も多いと聞いている。戸建ての家 や集合住宅などが建てられており、富岡も比較的に公営住宅が埋まっている。先日、いわきに避難して いたがやはり富岡に戻りたく、やっと空きが出たから住むことができたいう方にお会いした。
・富岡町も電車が通るというところまで来た。富岡町の場合は駅が津波で流されているので、内陸に移動 して堤防も造られている。また、富岡町は桜が本当に有名な町で、2.5km ぐらい続く桜のトンネルがあ るのだが、まだ半分以上が帰還困難区域内になっている。復興再生拠点になっているため、1 月か 2 月 くらいには道が通れるようになったと聞いているが、夜の森(よのもり)という桜が多い地域にはいま だ住むことができない状況が続いている。
・震災後、避難所でふるさとの大切な桜の写真を見て涙を流している人がいて、今は半分がバリケードの中だが、そういった人たちが戻ってきて、また桜の下を歩けるようになった時に、何か感慨深いというか、やっとこのような日が来たんだと感じたのを覚えている。
・6 号線から少し逸れた川内村では、避難所で仲良くなったおばあちゃんがいた。避難所に自分の家の庭の写真をたくさん持って来ていて、花の写真を見せてくれた。そのおばあちゃんも村に 1、2 年入れな かったので、その花がいったん全部枯れてしまった。でも村に戻って、すごくきれいな花をたくさん育 てており、今では自分の家で好きなことをして暮らすことができるようになっている。
・最後に、楢葉町について。楢葉町も人が戻るのが早かったので、復興拠点という場所には、スーパーや パン屋、ラーメン屋のほか、まちづくりの拠点みたいな場所もあるので、その拠点を中心に人も戻って きて、賑わいがあると感じている。
〇被災者の声
・実際に住んでいる人はどんな気持ちで過ごしているのか、その声を紹介したい。まずは voicefrom3.11で集めた声で印象的だったものを紹介する。まずは川内村に住んでい た方から、「震災がなければ今頃息子たちと住んで、孫守りしていたはず。隣の町から嫁に来て、嫁に 来た以上は先祖から受け継いだ土地を荒らしたりはできない。帰ってきた時はすごく荒れていたが、そ の光景が悲しくて悔しくて、これからも先祖と土地を守っていきたいと思っている」という声があっ た。普段はとても明るく元気な方だが、その声を聴いた時に、土地とのつながりみたいなものをすごく 感じて、だからこそ故郷から離れるとか先祖から受け継いだ土地が荒れていくということが、本当に悲 しいのだろうと感じた。
・二つ目は、まだ誰も住むことができない双葉町の女性の声で、「避難しなさいというのは、今も追い出 されたという気持ちを持っている。悔しさは原発。事故がなければ住んでいられた。今も東電が許せな い。憎い。」というもの。さらに「深く考えずにいわきに家を建てた。今は前向きな気持ちで住もうと 思っている」と言っていた。この夫妻は、時々二人で双葉町を通っていわきに帰ってくるそうで、やは り元のところに住みたいという意識がある。
・三人目は富岡町の女性で、「空白の数年間は、風景が一変して、自分たちの積み重ねた歴史が、たち切 れた空白になり、いろんな意味で繋げていけないまま今もある。避難先の 10 年の歴史はあるけれど、 避難することが無かったらの想像の 10 年もある。」という声。そして、ここがすごくつらいのだが、そ の思いは「『私だけではなく皆なんだ』で終わらせるしかない。」そんなふうに自分を慰めて、前を向こ うとしているところが、本当につらいなと思う。
・最後は voicefrom311 ではなく、私が実際聞いた声で、福島県中通りから山形県に母子避難をした方で、 数年前に中通りに戻ってきた方の声を紹介する。戻ってきたきっかけが、お子さんが福島に戻りたいと 言ったこと。戻った小学校で「山形に避難してたんでしょ」といじめにあった。夫は福島に残って仕事 をしていたが、休みごとに山形に行くという暮らしをしていたので、「また今日も山形に行くのか?」 などの嫌味を会社で言われ、ついには体調を崩してしまった。それに気づけず申し訳なかったとこのお 母さんは言っていた。戻ることがいいとも言えないし、そういった難しさは、本当にあるなというふう に感じている。
〇いま「ふくしま」から伝えたいこと
・この 10 年を通して思うこと、考えていることは、大きな災害・原発事故に見舞われ、故郷を奪われた中でも、新たに生活を切り開いていくという、人間の持つ力強さや回復力はすごく力強いな、人ってす ごいな、ということ。一方で、前向きになれない人もたくさんいるのもまた事実である。そのため、故 郷に戻って生活する人、故郷から離れて生活する人、どちらの選択も尊重されるべきだと思っている。
・私が思うのは、自分で決めた人生を生きていないということが、すごくつらいことだということ。先ほ ど「追い出されたと思っている」という声があったが、自分で納得した選択ではなく、自分の描いてい たものと全く違う、自分で決めた人生を生きられないというつらさが、原発事故というものにはあるのだろうと感じている。
・そして新たな取り組みというのもたくさん始められている。大体が移住した人たちというか、もともと の住民の方ではなくて、浜通りに移住した方々の取り組みだが、伝承活動をする方であったり、「もー もーガーデン」という名前で帰還困難区域から連れ出せなくなった牛を飼い続けている方であったり。 また、双葉郡のコトハナというグループは、移住してきたお母さんたちが「子育てをするには双葉郡で はこんな遊びがあるよ」などと発信しながら、子育て応援コミュニティを立ち上げた。もともと浪江町 の方で、エゴマを浪江町の特産にしたいと言って、浪江町と現在避難している福島市でエゴマを育てる 活動を行っている方もいる。移住した人たちが中心ではあるが、やはりその町が元気であると「戻りた い」という人も増えるし、故郷がこんなふうに元気になっていくというので、離れて住んでいる人も元 気づけられるのではないかと思っている。
・最後に「ふくしま」から伝えたいこととしては、どんな災害でもそうだと思うが、災害が起こると全員 被災者と呼ばれて、それぞれの状況や環境は異なっていても、被災者という一面だけで見られてしま う。福島は避難形態も様々な選択や状況があり、そこを理解してもらえたらと思う。そしてこれが一番 伝えたいことだが、課題がより個別化・複雑化していて表面に出づらくなっている。更に。震災から 10 年というと、「まだそんな震災のことを言ってるの」という空気もあって、なかなか SOS が出しづらい 状況があると思っている。震災をきっかけに、いろんなことで悩んだり、考えたり、生きづらさを抱え ている人がまだまだたくさんいるので、SOS が出せる状況・環境を作っていくことが大事だと思う。そ して、いつどこで災害が発生するするか分からない今、福島の教訓を伝えていき、それを聞いた皆さん が、自分ごととして考えたり行動したりしてもらえるといいのかなと思っている。
3.ブレイクアウトルームでのディスカッションを終えての質問・感想など
〇鈴木氏(デンソー):私のルームは、被災地支援に関わった人たちばかりで、福島県に何度も足を運ばれた方もいた。今日の話を聞いたうえで、防災・減災について、更に伝えていかないといけないという のが、我々の使命なのではないかという話が出た。個人的な話になるが、2019 年のいわき市で水害が 発生した際に被災地入りをしたのだが、訪れた地域が双葉町に住めなくなって避難してきた中で水害 に遭われたという人ばかりの地域であった。それなのに皆さんは「双葉の災害に比べたら、こんな水害 なんて」「これくらい、乗り越えなきゃだめだよね」という話を笑顔でされていた。それを聞いてすご くつらい思いと同時に強さを感じて逆に勇気を貰った経験がある。福島県の皆さんの強さは本当にす ごいな、素晴らしい方々が多いなとお話を聞いていて思い出した。
〇浦野氏(RSY):北村さんとは長い付き合いになる。2012 年から福島に落ち着いてやってきたからこそ、 ここまでの話ができるのだろうなと改めて思った。グループでの話し合いの中で、やはり風化をすごく 感じるという話があった。今日聞いた話は、普段の話題の中でほとんど出てこない。福島県産の桃の販売に取り組んでいるが、そういった支援以外の関わりを具体的にどうやっていけるのかいう話が出た。 また別の方からは、今のウクライナの現状と少し重なるところがあるのではという意見が出た。命を捨 ててまで自分たちの土地を守ろうという、土地に対する想いというところだが、そこにとどまるという 機会すら与えられなかったというところで、原発事故による気持ちの折り合いの付け方は想像がつか ないくらいの状況だったろうと、どんどん口が重くなってしまった。当時の福島の皆さんの状況を想像 すると簡単に語れないところもあるだろうというのが率直な気持ちである。ただ、地域で頑張っている 方の姿をたくさん見せていただいたので、移住というかたちで、違う人との関わりが活気を生んでいる という新しい状況も見えたのは良かった。
〇栗田氏(RSY):北村さんの語り口から、深さというか、一気にすらすらと話ができない状況、どこから 話していいか分からないような状況が感じられた。それでも本当にきちんと伝えていただいたと思っ た。NHK の集計による居住率の話は、からくりというとおかしいが少し疑問を感じる。住民登録してい る人たちのパーセンテージだが、双葉町はもちろん帰還困難区域なので 0%だが、大熊町が 65.8%と なっていて高すぎる。これは中間貯蔵施設を造っている人たちの住民票も含んでということだと思う。 この施設は広さが 16km2と渋谷区と同じ面積もあり、そこに居住して作業に専念している方を含めてそ の数字が出ているのではないかと思う。富岡町も 20.9%だが、工事需要が高いので工事関係者の住民 票が含まれていると思う。結局、本当に戻ってきた方というのは、ほんの数%ではないかと思う。しか しながら、数%の方が「そこに戻りたいんだ」という選択をしたことが一つ大きな選択でもある。先ほ ど紹介された「もーもーガーデン」には絶対行きたいと思っているが、本当は被曝しているので牛は殺 処分しなければいけない、でもそれができないので安楽死・自然死するまで牛を育てるということで頑 張っている。そういうところにこの町を何とかしたいという人たちの力が関わっている。一方で、そこ に戻りたくない人たちもいる。子どもを抱えて戻れない人もいる。福島の現状というのは翻弄され続け て、10 年経っても何も変わっていないと。こういうことがあの数字で「帰っている人がたくさんいる」 と思われるのは良くないと思った。もう一点、例えば富岡町の小中学校が合同で開校しているわけだ が、生徒は全部で 30 人くらい。もとの人口は 2 万人だったのでもっといたはずである。でもそこに住 んで頑張っている人達にとっては、この子たちは宝なんだと言われている。そのような、今置かれてい る状況を我々はきちんと理解することが重要だと思う。来週のおたがいさま会議では、愛知県被災者支 援センターの取り組みの話、戻りたくても戻れない人たちなど、広域避難者への支援の話を取り上げる 予定である。
〇菊池氏(日本福祉大学):福島の人たちの現状はとても分かりにくい部分がある。そこについて語れる 場が無くなっていくと、不理解が進み分断が進んでいくのではないかという話になった。今、エネルギ ーの問題で原発を推進する人もいるが、福島の人たちが置かれている状況や起こっている現象のミク ロなところを全く見てないと思う。今回のおたがいさま会議のように、福島の人たちが置かれている現 状というのを知る場をいくつも作っていかないといけない。
〇北村氏:福島のことと言うと、やはり特殊性があって、原発事故によって今もまだ避難を余儀なくされ たり、生きづらさを抱えている人がたくさんいる。そのことを話すと、すごく重くて本当にとっつきに くくて、それこそ「もうあまり聞きたくない」というふうに思われる。今でも汚染水の問題や賠償の裁判があると、福島のことは面倒くさいと思われがちだと思う。しかし、日本に原発はたくさんあり、自 分ごととして捉え、災害がいつ起こるか、どこで起こるか分からないので、そういう意味で皆さんにも 備えをして欲しい。忘れないでと言うよりも、やはり関心を持つ、自分ごととして捉えてもらって、福 島のことは福島だけではなく日本全体で関わることだと思ってほしい。
・福島の米などは、コロナの関係でますます打撃を受けて売れなくなっているというところもあるので、 関心を持って今後も関わってもらえるとありがたい。
・福島に戻って生活する居住者が増えると良いというわけではないと思っている。避難している方もた くさんいるし、本当にそれぞれがそれぞれの場所で納得して幸せに暮らせたら、それが一番いいと思 う。福島が元気で活気があれば戻れない人もそれはそれで安心というか、そういうこともあるのではないかと思う。ぜひこれからも福島に関心を寄せてもらえると嬉しい。
4.今後の予定
■開催日時:3 月 15 日(火)16:00-17:00
■テーマ:『被災地の現状~東日本大震災から 11 年目の岩手・宮城では~』
■ゲスト:NPO 法人いわて連携復興センター地域コーディネーター富田愛氏
ウィル・サポート/JCN 宮城担当等三浦隆一氏
■開催日時:3 月 22 日(火)16:00-17:00
■テーマ:『子どもの声からつくる未来のかたち~宮城県石巻市の実践から』
■ゲスト:一般社団法人 SmartSupplyVision 清水葉月氏
西城楓音[さいじょうかざね]氏 (日和幼稚園遺族の会、現在19歳)
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